長崎街道

佐賀城下〜神崎宿〜目達原宿(吉野ケ里公園駅近く)20Km
佐賀藩の最後の区間
城雲院に近代医学制度の基礎をつくりドイツ医学を導入した、東大医学部の学長の墓。

街道筋に恵比寿さんが多く祭られている、鯛つり恵比寿、鯛を背負った恵比寿など


神崎宿
他の町と異なって東西の入り口に木戸を設けて独立した町立てとなっている。シーボルトの日記によると1000戸の気持ちのよい所で8っつの街に分かれている、長さは一里、古代から大規模な集落として開け、奈良時代から平安時代は神崎の荘として栄えた。神崎そうめんの製造所が多かった


田手宿
田手川の堤防に祀ってある大神宮を挟み、10戸ばかりのわらぶき屋根の並ぶ寒村であったが、天智天皇が筑紫に行幸されて以来4月と10月には参拝者が押しかけて大変に賑わいを見せていた。明治の佐賀の乱により焼き払われ街の衰退が始まる。


目達原宿
当時は40戸あり殆ど農家ばかりであったようです。ここは松林が有名で松の老木が街道に大きな松傘をつくり松林の響きが頭上で奏でるのどかな松並木道であった。しかし、明治末期殆ど伐採された。

佐賀にもありましたよ


10年前はもっと木が茂っていたそうです


佐賀の街は歩けど歩けど平地、
私の街ではいくつの山坂を超えたのだろうか本当にうらやましい
歩いた歩数30000歩