長崎の街を歩いてきました

(南山手〜琴平町〜小菅町〜戸町)
 
安政の開国(1858年)に伴い、神奈川、函館、とともに開港場となった長崎には、出島、梅ケ崎、大浦海岸埋立地、東山手、南山手の各地に外国人居留地が設けられた。
南山手が居留地になったのは文久3年(1863年)で、大浦天主堂、グラバー住宅もこの年に施工している。
東山手には領事館、南山手には住宅地。丘の下の平坦地は海岸通りが商社、その背後は銀行、ホテル、娯楽場、店舗などであった。
南山手の洋館はレンガ石と木の構造であるが、煙突が特徴。ここに異国情緒あふれる街並みが形成された、今日もその一部がその姿を留めている。

* 大浦外人墓地
  大浦外人墓地1861年、イギリス領事館が諸外国領事                             先頭に立ち大浦の外人居留地の近くに国際墓地の新                             設を求めて現在の川上町に新しい墓地が開設された。                            一字は13列5段に分けられ283の墓所があったが、長年の侵食で判読不能や消滅したものが多い、」ここに埋葬された人々の多くは船員である。




* 南山手レストハウス

   

  石造りの民家で洋館の中ではかなり古い建物で、最近まで民家として日本人が住居していたが、長崎市が買い取り居留地時代の古写真パネルなど展示している。


* 町田邸
  明治中期の建物で破風、鼻隠しが鋸歯状になっている、デンマーク 船船長フデリック・コフォード氏の住宅


* 南山手町街並み保存センター
  明治中期天主堂したにウイルソン・ウオーカーが建設、ホテルの一 部として使用、大正年間雨森病院として戦後 まで長く使用したが昭 和63年売却解体後長崎市に寄贈現地に移転復元したもの。


* 旧香港上海銀行
  この建物は長崎市により取り崩しの提案があり、市民の強い反対運 動結果、取崩さなくなった建物で現在重要文 化財になっている。
 明治40年香港上海銀行長崎支店として建設されたもので、レンガつ くり3階建ての建造物。
 外壁は石造り、1階は円形アーチ式、2階、3階の前面にはコンクリ ート式、石造り円柱の並列で明治を代表する
 ネオ・クラシズムの重要な洋風建築物である。
 ネオ・クラシズム・・・古典建築の造形原理(「支える」こと)に重 点を置き柱とその並びが造り出す力強い立体 的外観で理想的で調和 的な美の創造を言う。
  この建物は明治時代の鬼才、下田菊太郎の設計である。
 戦時中戦艦「武蔵」を三菱重工で建造の祭、機密保持のために海軍が 買収し、警察に譲渡した経緯があり永く大浦 警察署として利用され た。


* 旧ベルビューホテル(現在長崎全日空ホテル グラバーヒル
  長崎最初の大型用式ホテルとして、文久3年(1863年)に開業 したホテルでベルビューとはフランス語で「美 しい眺め」と言う意 味だそうです明治39年に閉業するまで、国内外の知名人が多く宿泊 した。


* 小曾根邸跡
  坂本龍馬の活躍の陰には豪商、小曾根家の大きな援助がありした。 勝海舟と以前から親しかった小曾根乾堂は、 元治元年(1864)坂本 龍馬が始めて長崎に来たとき、海舟から龍馬を紹介されたようです。 乾堂と龍馬、亀山社中 とのよき仲介役となったのが乾堂の弟の清三 郎と英四郎であった。


*どんどん坂


* 小菅修船場(ソロバンドック)


  俗にソロバンドックといわれる三菱造船所の修船場がある。明治元 年12月に落成した。昔は小菅浦尾溺れ谷と いった細長い入り江で あった。日本最初の近代的ドックである。海中から陸上へ斜面レール を敷き、ソロバン状の 滑り台を置き海中でこれに載せ引き上げて船 体を修理した。
  設計を計画したのは薩摩藩士五台才助、小松帯刀とグラバーの共同 出資で着工した。明治2年政府はグラバー から買い上げ明治17年 三菱が借用し、明治20年ごろ三菱に払い下げられた。日本の近代造 船史を語る最古の施設である。


* 戸町番所

  幕府は鎖国令を発するとともに海防を厳重にするため、寛永18年 (1641)筑前藩・黒田忠之に命じて西泊番  所、同19年佐賀藩・ 鍋島勝茂に命じて戸町番所を設けさせた。西泊3870坪、戸町28 40坪の番所とりでを 構築、両藩で1年交代とし1000人の役人 を配置したことから千人番所と呼ばれていた。

* 戸 町
  戸町は入海で漁船の船泊りの場であった。戸町一帯は鎌倉幕府ころから戸町一族が支配していたがその後、有馬 氏・長崎領となり、その後大村領となるが、安政4年(1857)幕府は戸町を公領とし、大村には古賀村の一部を与 えた。